あの子は今
Facebookの「知り合いかも」に出てくる人はたいていが全く知らない人
という説が私の中ではある。
だからたまに「知り合い」–––– それも何年も会っていない人–––– が不意に出てくると、なんとも言えない気持ちになる。
「知り合いかも」という文字とともに、あの子の名前が画面に映し出されたときもそうだ。私が知っている名前と、プロフィールに載っている私の知らない満面の笑みを浮かべたその子の写真を見て、シャツのボタンを掛け違えたようなちぐはぐな違和感があった。
小学生の頃、私は転校した。
といっても転校先の学校と元いた学校の生徒は中学に上がると同じ学校に通うことになるのだけど。
転校する前のA小学校にあの子はいた。
彼女はいじめられていた。正確には、いじめ、という確かな実態があったわけではないが。無視したり、悪口を言ったり、物を壊したり、直接的なことは誰も何もしなかった。それどころか、みんなあの子と普通に話をしていた。しかし、みんなから疎まれている空気は確実にそこにあったのだ。
それが余計に不気味で、怖かった。
当時の私も周りと違う方向を向きたくなくて、見て見ぬ振りをした。ただ、自分からは話しかけずに、話しかけられたら普通に話す。
正直、彼女が嫌われる理由が私はまるで分からなかった。でも、いじめる理由なんてたぶんクラスの誰も分からなかったのだろう。理由も分からずに、
「みんながやってるから」
ということだけで人は、特に子どもは時に大人よりも残酷になる。
途中で転校した私は、中学に上がるとその子に再会した。私が転校した先のB小学校の子たちは、いじめの背景など一切知らないからか、はじめは彼女と普通に接していた。
空気が一変したのは入学してから1ヶ月ほど経ったころだった。
それまで普通に接していたはずのB小の子たちが彼女と口をきかなくなっていた。それだけではなく、掃除の時間に机を移動するとき彼女の机だけ誰も運ぼうとしなかった。
子どもの学習能力や順応性は凄まじい。しかしそれはときに残酷さを持って発揮されてしまう。
A小の頃ですら、根本的ないじめの理由なんてみんなほとんど分からなかったはずなのに、B小の子たちはもはや全く理由も分からずに周りの流れに従っていた。
しかし、中心となって避けていた子より、事情を何一つ知らずに周りに迎合していた子より、なによりも怖かったのは、自分自身だった。
私はいじめの標的にされないように周りに合わせながら、でも心の中で罪悪感を感じていて極力その子に話しかけられたら他の友達と話すように気さくに接した。
そのこともあってか、私が転校するときには個人的に「いつも優しくしてくれてありがとう」という手紙をもらった。
胸が痛かった。
結局中学3年間も同じように過ごし、卒業後は連絡をとることも一切なく、その子のことも、罪悪感も忘れていた。
ザッカーバーグが”あの人は今”を私にレコメンドするまでは。
その子の楽しそうな写真を数枚みて、心のどこかでほっとしている自分に気づき、さらに怖くなった。
こんなに私は傲慢だったのか、と。
ずっと、いじめられている彼女を哀れんでいたのだろう。
哀れむ。なんと上から目線な言葉なんだ。
自分で何も行動する気はないくせに一人前に心配しているなんて、ただのポーズだ。
ザッカーバーグが私に見せてきたのは"あの人は今"なんかじゃなく、彼女の明るい笑顔でより鮮明になる私の中の昏い部分だった。
もう関わることのない彼女の"今"に土足で踏み入れないように、
私はそっと、画面を閉じた。